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日々思いつくままに

久方振りに東京の繁華街を回った

 8月16日(土)

昨夜、満月が美しかった。暑い夜だったが何となく秋が来たという感じがした。
本来、お盆は旧暦の7月15日満月の夜の行事だった。電灯のない時代、夜の行事は月の明りが頼りだったのだ。この満月の下で祖先の魂を祭り、村人が集まり歌い踊ったのではなかろうか。
 
ここ数日、オリンピックでテレビの前から離れられなくなった。
お陰で今年の高校野球の影が薄くなってしまった。
それにしても今回の日本男子柔道の不甲斐なさはどうしたのだろうか。
柔道のルールも柔道と云うより、着物を着たレスリングに変ってしまった。
これまでの日本の柔道では世界に通用しなくなるのかも知れない。
柔道本来の「柔よく剛を制する」柔道本来の姿と、礼を重んじる柔道精神が失われてしまっている。柔道の「道」は外した方がいいのかも知れない。
 
ところで、オリンピックだけでないが、最近の団体戦の日本代表に「星野ジャパン」「反町ジャパン」等と監督の名を冠して呼んでいる。
呼びやすく何となくスマートな感じがするのが受けているのかも知れない。
しかし、日本代表に個人の名前を冠して呼ぶのはどうだろうか。
私はこれを聞くと大変異様に感じるのだ。
野球日本代表、サッカー日本代表であって、監督はそのチームの監督でしかない。
マスコミでは言いやすいから使っているかも知れないが、言葉として適切でなく、その士気にも影響しそうな気がするのだ。
これは私だけの極めて個人的な感じかも知れないが、せめてNHK位正しい言葉を使って貰いたい気がする。
例えば女子サッカーのように「ナデシコジャパン」とか「フレッシュジャパン(サッカー)」などではどうだろうかと思う。

 
午後になって、久方振りに仕事のため東京に出かけた。
仕事は夕方から、その前に俳句を作ろうと明治神宮へ向かった。
柏を出るときは晴れていたが、神宮前で千代田線を出ると、大雨で雷が鳴っていた。少し小降りになったのを見計らって神宮にお参りし、御苑の中を1回りした。御苑の睡蓮を見るのが目的であった。
ところが御苑の池の睡蓮は全く無くなっていた。せっかく来たのに残念だったが仕方がない。しきりに鳴く蝉を存分聞いて帰った。

この森は大正12年全国の木を集めて出来たとのこと。まだ百年は経っていないが、昔からここにあったような感じがする。東京にこのような森があるのは素晴しいことだ。最近、私の家の近くから、木立がだんだんなくなり、蝉の声を聞くことも少なくなってしまった。夏に蝉の声が聞けないのは淋しい。
 
夕方、原宿の竹下通りを歩くと、若い子ばかりで、私のような年寄りが歩いていると、不思議がられそうだ。昔は原宿と云うと、山手線沿線で一番静かな住宅街だった。まさかこうなると誰が思っただろうか。ところで、この若い人達は何処から集まっているのだろう。夏休みで遠い所から来ている子供も多いのかもしれない。
昨日は終戦日だった。
戦争も知らず、生活の苦しさも知らず、流行を追い、遊びに夢中になっている若い人達が羨ましい気がする。その反面、この人達に将来の日本を任せられるのかと、少し配になって来るから不思議だ。余分な心配かも知れない。

今日は原宿、渋谷、新宿と廻った。若い頃、映画全盛時代の浅草、新宿の歌舞伎町や銀座等を仕事場にしていたので、人出には馴れていたつもりだったが 久方振りでここを歩くと、その人出の多さに圧倒されそうだ。しかし、若い人達に混じって歩いていると、何となく若い人のエネルギーを貰えそうな感じがしないでもない。
時にこのような所を歩くと老化防止に役立つかも知れない。

夕方から4店舗ほど廻ったが、オリンピックを大型テレビで観戦するお客様で何処も大入り満員だった。
店は英国風居酒屋「ハブ」(HAB)と言う。余り宣伝はしていないが、スポーツハブとして、口コミでお客様が増えているようだ。店内は英国風で洒落ている。お客様は若者と外国人が多く、スポーツ放映のため、大変賑やかだが、お客同士が意気投合し和気藹々の感じを受ける。女性のみのグループのお客さまが多いのは、安心して飲めるからだろう。店員の応対もよく先ず問題ない。
この店は都内に42店、全国で50数店展開しており、年々出店数を増やしている。
お酒の好きな方は勿論、一寸した打ち合わせや息抜きに持って来いの店である。
試しに1度ご来店いただくと、屹度病みつきになるかもしれない。

  暮るるまで鳴く森の蝉盆の果て
  蝉鳴くや昔を歩きゐる如し
  敗戦忌昨日に蝉の鳴き止まず

# by yuusimatuda | 2008-08-17 02:27

終戦の日に際して

 08,8,15(金)


 敗戦忌十一歳が七十に

 今日は終戦の日。この日は月遅れのお盆と重なり、先の戦争で亡くなった人達を弔う日として最も相応しい。この所、お盆、即、敗戦忌として生活の中に溶け込んできたように思う。あれから63年、今年はこの日が旧暦のお盆とも重なった。
 掲句は4年前の作。
 
 私は戦争が始まったとき1年生だった。それから敗戦まで4年、日本は神国であり、絶対に負けない。いざとなれば神風が吹く、と教えられて育った。「鬼畜米英」、「撃ちてし止まむ」、と、勇ましい掛け声の軍国教育と、小学2,3年から厳しい訓練を受けた。
 しかし、開戦直後はともかく、昭和十八年末ごろになると敗色が濃くなり、子供心にも、何となく負けるのではないか、という不安感を持つようになっていた。勇ましい掛け声も空しく、負け犬の遠吠えのような感じがしないでもなかった。
 
 昭和19年、サイパン島の日本軍が玉砕、米軍はここを拠点にこの年の秋から、B29による日本の本土空襲を始めた。
 沖縄を窺がう米軍は九州、特に南九州の軍事施設の空襲を強化した。近くの出水飛行場は数日おきに空襲があり、その都度、大型の時限爆弾を投下した。
それが数時間おきに爆発し、その振動が10キロ近くも離れている私の家まで地震のように揺れたのを覚えている。その時限爆弾が切れると間もなくまた空襲があった。
 B29は1万メートル以上の高高度を飛行するので、日本の戦闘機の飛行能力に限界があり、高高度での迎撃は効果が少なかったようだ。当初は迎撃機が飛んでいたようだが、その内、迎撃機も飛ばなくなった。また、高射砲の砲撃もあったが届かなかった。B29は爆弾を落とし、悠々と去って行った。
 
 昭和20年になると、B29に代り、毎日のように艦載機による空襲が始まった。既に飛行場に飛行機はほとんど見られず、当初は高射砲で応戦したが、間もなく高射砲も撃たなくなった。空襲直前になると飛行場の飛行機は何処かへ避難し、迎撃どころではなかった。
 沖縄戦が始まると、特に空襲が激しくなった。天草の沖から飛来た敵機は、私の村の真上を飛んで矢筈山の上で二手に分かれ、半数は水俣の工場を、半数は出水飛行場を爆撃した。出水飛行場は海軍の特攻基地だった。特攻機はその空襲の合間を縫って飛び立って行ったのだ。
 
 沖縄戦は終ったが、空襲はますます激しくなった。その頃になると、少年の私でも、これで日本は負けるに違いないという確信に近いものを感じるようになっていた。しかし、それを言葉にすると非国民と言われるので言葉には出せなかった。
 
 日本は制空権を失い敵機のなすままで何にも出来なかった。それでいて、これは本土決戦に備えて力を蓄えておくのだとのことだった。しかし、飛行場に飛行機がないのも知っていたし、近くで見る日本軍の装備も貧しいものだった。銃を持たない兵隊も沢山いた。
 それに日本有数の軍需工場であった日窒水俣工場は破壊され、ほとんど機能していなかった。それは工場で働いている人達の言動から窺がえた。
毎日のように空襲にさらされ、敵機が来ても応戦も出来ない情けなさが、少年の心に重たくのしかかっていた。
 
 学校は警戒警報が発令されると休みになった。従って、学校へ行かない日が多くなり、その内、村毎の分散教育が始まった。私の村は1年から6年まで4,50人の生徒がいたが、先生は女学校を卒業した代用教員が1人だった。
 1人の先生では何にも出来なかった。農作業が忙しいときは勤労奉仕に狩り出され、時には炭鉱の坑木(炭鉱の土砂崩れを防ぐために坑内の天井や外壁を覆う木材)担ぎに狩り出された。これは松の丸太で直径15センチから20センチ、長さが約2メートルもあり,これを山からトラックの通る道まで担ぎ出すもので、子供には大変な作業であった。
 これらが無いときは、村の集会所を教室に授業があったが、ほとんど自習で先生の手は回らなかった。遊び盛りの私達は先生の隙を見て抜け出し、山遊びや魚釣りに熱中した。それに学校が休みの日は自分の家の農作業の手伝いが待っていた。麦刈りや真夏の藷の草取りは辛かった。

 終戦の詔勅は家族のほか、近所の人達が私の家に集まって一緒に聞いた。ラジオの雑音がひどく良く聞き取れなかったが、戦争に負けたのだということは、その雰囲気から分った。当時、私たちの田舎ではラジオのない家が多かったのである。
 
 間もなく学校の2学期が始まると、教科書の中で、戦争に関し都合の悪い所を墨で塗り潰させられた。
 やがて新しい民主主義、自由主義教育と云うのが始まった。それまで戦争を励賛し、反米英の教育に勤めていた先生達が、掌を返したように全く反対のことを言い出した。私達には耳新しい民主主義とか、自由主義とか、文化国家とか、何かと占領軍に都合のいいことばかりをいい、都合の悪いことは言わなくなってしまった。正しかったはずの戦争も日本が悪く、責任は日本にあるというのだ。
 敗者として、仕方ないこととは分かっていたが、子供心に大人達の変身の早さを何となく異様に感じたものである。
 
 先日、句会の席で終戦忌の句が出たので、当時思ったことを話したところ、兵役の経験のある80歳過ぎの人から、「私達はほっとしました」との発言があった。
 実際、一部を除いて国民の多くがそうであったのかも知れない。私もほっとしたのは事実である。しかし、これまでの自らの教育を自ら否定し、平気でいられる人達が何となく信用出来ないように感じられたのだ。これはほっとしたのとは別の問題のように思えるのだ。
 物心がついた頃から軍国教育を受けて来た者にとって、民主主義などと云う言葉は聞いたこともなかったのだ。教育の恐ろしさもその辺にあるのかも知れない。
 
 現在、日本の教育はその反動でおかしくなっているようだ。国民に自分の国を愛するとか、誇りを持たせる教育がなされていない。子供達だけでなく、大人までも自分の国に対する誇りや、国を愛するという気持ちが希薄なようだ。この63年負の面ばかり強調されていないだろうか。中国や韓国を初めナショナリズムの盛り上がっている国のエネルギーは大変なものだ。
 
 今、北京オリンピックが行われている。オリンピックだけでなく、スポーツはナショナリズムが盛り上がり、経済成長が続いている国など、勢いのある国ほど強いような気がする。国の勢いがこれらのスポーツにも現れているのだ。もっと国民が自分の国を愛し、日本国民として自信を持たなければ、この国はその内、滅んでしまうに違いない。
だからと云って戦時中のようなことがあってはならないのは当然である。しかし、国の誇りだけは失いたくないものだ。
 終戦の日は何かと思うことが多い。

# by yuusimatuda | 2008-08-15 18:07

京都大原

出張ついでに京都の大原を旅しました。
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# by yuusimatuda | 2008-08-06 15:06 |

ブログの始めました

改めてブログを始めました。
ブログの始めました_c0167560_14522425.jpg


# by yuusimatuda | 2008-08-06 14:29 | 日常