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日々思いつくままに


俳人雄姿の日常
by yuusimatuda

手賀沼の辺を歩いて来た

08年8月26日

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午前中慈恵医大病院へ、終って手賀沼のフイッシングセンターの付近を歩く。
この所、雨の日が多く、今日も小雨で肌寒い風が吹いている。
フイッシングセンターの前には、白鳥一家6羽ほどが遊んでいた。付近の草をむしり沼に投げ込むと美味しそうに食べている。白鳥はイネ科の植物が好きだ。大根とか白菜、キャベツ等を撒いてもよく食べない。
6羽のうち親鳥2羽、去年の若鳥3羽、今年の子供1羽、白鳥は羽根の色で素人にも見分けられる。ここの白鳥は渡らないとのこと。冬に渡って来る白鳥に似ているが、種類が違うのだろうか。
しかし、白鳥はなんと云っても冬の鳥だ。涼しいとは云えまだ8月、何となく暑苦しい感じがする。手賀沼にはこの他にも何家族かの白鳥がいる。飛べるのにここの白鳥が飛んでいるのを見たことがない。

  夏終る渡りを知らぬ白鳥に
  杭の鵜の羽を開けば十字架に
  沼の杭鵜が占めて夏尽きんとす
  秋の蝉淋しくなれば鳴きにけり
   鳥見神社雨乞獅子
  雨乞獅子物部の祖を産土に

そこから近くの北の作古墳を見にゆく。この古墳は手賀沼を望んだ台地の上にある。
手賀沼は昔は海だった。この古墳が出来たころは海に突き出た台地の上にあったのだろう。大きくはないが、3世紀初めから4世紀後半にかけてのものと推定されている。3世紀前半と云うと卑弥呼の時代だ。出土品等からの推定と思われるが、先祖から引き継いだ宝物を一緒に埋葬することも良くあることだ。それにしても房総で最も早い時期の古墳であることに変わりはないようだ。一体どうしてこのような房総の一番奥地に、しかも、このように早い時期にこの古墳が築かれたのだろう。
手賀沼からは、約2000年前の丸木舟が出土していると云う。
従って、古墳以前から、ある程度の文化を持った人の集団が住んでいたことは間違いないようだ。
我孫子にはアイヌ語の地名も残っている。
もし、先住民がアイヌだったら、この古墳の主たちが、これを追い払い、ここを開拓したのかも知れない。

日本の天皇で一番最初に時代が知れるのは欽明天皇らしい。即位は539年という。天皇の一代を欽明天皇以後の10代の平均から、10年とすると、その18代前の景行天皇は360年ころの即位と考えられる。雄略天皇(倭王武と仮定)が中国へ遣使した478年を基準にしても、その9代前が景行天皇であり、これからもおおむねその時期に変りはないようだ。
その景行天皇のとき、倭武が東征したという。千葉県の南部の国造は景行天皇の次の成務天皇の時に任命され、印旛の国造は、また、その次の仲哀天皇の時に任命されたとのこと。これからすると倭武か誰か分らないが、大和朝廷軍が、この頃東征したことは間違いないようだ。景行天皇の2代前の崇神天皇も四道将軍を派遣して、各地を征服したという。この時、東征した有力者が古墳を築いたとすると、4世紀半ばになる。

ところで、ここから少し東の小林には崇人天皇の時代に祀ったと云う鳥見神社がある。また、流山の三輪神社も崇神天皇の時代に祀られたという。

これからすると、崇神天皇や景行天皇の時代、既に、この付近に有力な豪族が出現していたのではなかろうか。千葉県の国造が成務天皇から仲哀天皇の時代に任命されていることからも分るような気がする。
古墳を訪ねたり、古い社を訪ねると、その土地に係わる日本の古代のことが気になり、いろいろと推測したくなる。

これらを訪ねて感じるのは、古事記の記事が年代にはやや問題があるにしても、案外、歴史の筋道は示しているような気がするのだ。戦前、神話を現実に置きかえたのは可笑しいが、だからと云って、これを全面的に否定するのも可笑しいのではなかろうか。

# by yuusimatuda | 2008-08-26 23:06

句会の梯子と諏訪神社のお祭り

08、8月24日(日)

昨夜もエキサイトにログインできなかった。どうやら光りに変更したとき、何処かが可笑しくなったようだ。簡単に直せる所だったが、昨夜2時まで起きていて、全く無駄な時間を過ごしてしまった。従って、昨日書いたのをそのまま入れることにした。

昨日(一昨日)は、柏俳句連盟の俳句大会を開催した。
柏の連盟の平均年齢もかなり高くなり、大会の準備や後片付けをするのに年寄りばかりで大変だった。俳人協会の平均年齢が75歳と云う。当連盟はもっと上かも知れない。

10時から受付、11時開会。
先ず1時間ほど太田土男さんの講演を聞いた。
太田さんは「草笛」の代表で、これまで「俳壇賞」「俳句研究賞」を貰った実力派の俳人である。太田さんは教育大の農学部を出た草地研究の専門家でもある。今日は「野となれ山となれ」と云う題で「自然環境」の話を俳句と関連付けて話して頂いた。太田さんとは「浜」当時からの仲間、現在「百鳥」で一緒に俳句を作っている。年齢は私より少し若いが、俳句の上では先輩である。
今回の参加者は78名、昨年に比べると幾らか多かった。これも講演のお陰である。
大会は17時少し前、無事終了した。

ほっとする間もなく18時から「百鳥」柏句会の例会。
こちらの参加者は、出席28名、欠席投句10名で、計38名、会員のほとんどが投句していた。この句会は気心の知れた人ばかりで、のびのびと出来るが、それでも朝から引き続きの句会でかなり応えた。

  唄ふ埴輪踊る埴輪や月を待つ  

この句が、最近、珍しく高点を得たが、句会で高点を得た句は、主宰の選に入らない場合が多い。今回はどうだろうか。

その帰りに豊四季駅で降りると、近くのお諏訪様のお祭りだった。以前は駅前からお宮までの道路を通行止めにして、露店が2百メートル位並び賑わった。最近は暴力団対策で道路から露店を締め出したので、人出も昔より減っている。祭りには露店が出ないと何となく淋しいものだ。露店の多くは境内の空き地や参道に移っている。おかげで今日は参道が露店で狭められ大変な混雑だったようだ。

このお諏訪様は、一昨年、創建1200年を迎えている。天武天皇の皇子で、壬申の乱で活躍した高市皇子の子孫が創建したという。
高市皇子は天武天皇の長子であったが、身分の低い母の子供であったので、皇位継承争いに巻き込まれず生涯を全うした。と云っても40数歳でしかなかったが、当時では普通だったのかも知れない。しかし、その子の長屋王の時代になると、他の有力な皇位継承者に子供が産まれなかったり、病弱であったり(毒を盛られたのかも)、殺されたりして減ってゆく中、婚姻関係等もあって、皇位に最も近くなっていたようだ。
長屋王は皇子ではなかったが、最近の出土品から、実際は皇子と呼ばれ、大きな権力を握っていたらしい。それが藤原氏の妬みとなり、終には謀反の濡れ衣を着せられ殺されてしまった。所謂、長屋王の事件である。それ以降、一族は、藤原氏の専横をじっと我慢し、肩身の狭い思いをして、ひっそりと過ごしていたようだ。

奈良末期になって、大和の生活に絶望したその一族の一部が関東に移住したようだ。当初、松戸付近にいたが、やがて、この駒木付近を開拓し定着したらしい。一族が大和から移住するとき、勧められて諏訪のお諏訪様を勧請したという。それ以来、その1族と盛衰を伴にしてきたようだ。

源義家が後三年の役で奥州に出陣するとき、この御社に祈願し、ここで兵や馬を集めたとのこと。その帰りに戦勝のお礼として馬と馬具を奉納したと伝えられている。本当かどうかは明らかでないが、何らか関わりがあったのかも知れない。昭和の半ばまでは境内に義家鞍掛けの松と云う大きな松の木があったという。今もその切株が保存されている。

最近、この神社の境内がよく整備され参詣者も多くなっている。神官が北村西望と親交があったらしく、境内には西望の等身大の義家人馬像、狛犬その他の作品が多い。また、社務所には西望の絵や書等が多く保管され、その展示室もある。

天皇家に繋がる高市皇子の子孫が、どうして、諏訪様をお祭りするようになったか興味深い。天皇家に反発を感じていたのか、それとも、当時、関東は天皇系の神よりも、出雲系の神の方が皆の信仰を得ていたのか。その両方かも知れない。

私は俳句作りを兼ねて、この神社によく参詣する。最近、近くの森が消えて行く中、この神社に広い森が残っているのは有難い。この杜を巡ると、西望の作品や童謡を書いた童謡の小道があり、大変楽しく、心が和む。

日本各地の神社は、自然破壊から森を守って来たが、最近は神社自身が金銭目的で杜を破壊している所もあるようだ。神社だけでも杜を守って行ってもらいたい。
お社の森に杜の字を当てるのは、お社は森の中にあるからではなかろうか。その杜を大事にしたいものだ。

今日は1日在宅、夕方、ウオークキングに出ると、雨模様のぬれた草の中で蟋蟀が鳴き始めていた。暑さも一休み、諏訪様の杜には霧がかかり、もうすっかり秋の気配がする。

  雨三日続きて虫の鳴きはじむ

# by yuusimatuda | 2008-08-25 14:03

オリンピックでも日本の女性は強い

8月22日(金)

昨日、どうしてもエキサイトにログインできなかった。
今日、やっとログインできたので、昨日書いていたのをそのまま乗せることにした。

北京オリンピックも終りに近付いてきた。
これまでのオリンピックに比べて日本の成績は芳しくないようだ。
特に男子の成績が悪い、これに比べ女子は頑張っている。

昨日のソフトボールの上野投手はすごかった。1昨日、ダブルヘッダーを2回戦とも投げ、昨日も投げぬいた。2日で430球近く投げている。これに比べ、野球の日本代表のだらしないこと。初戦で韓国に負け、すっかり、萎縮して仕舞い、思い切った試合が出来なかった。今日の準決勝も韓国に最後になって大きく点を入れられてしまった。韓国野球の方が日本より実力がありそうだ。良い投手がおり、バッターも揃っている。日本でも韓国系の選手が活躍している。
韓国に負け、頭を丸めた者も多かったとのこと。それでは返って、自ら、自分達を精神的に追いつめ、普段の力が出なくしてしまうのは当然である。それにもう1つの原因は自分達の力を実力以上に買いかぶっていることだろう。韓国より自分達が上だという思い上がりが、頭を丸めたりする原因にもなっているのだ。韓国に比べて年俸が高いからと云って実力があると言う訳ではないはずだ。それを誤解しているようだ。

今回、団体戦でチームに監督の名前をつけて呼ばれているチームはみんなだめだった。「星野ジャパン」「反町ジャパン」「柳本ジャパン」がその代表だ。野球オール日本、バレーボール日本代表等と呼ぶべきであろう。もし、他の呼び方をするのなら、ニックネームを別に考えるべきである。

ところで、オリンピックだけでなく、最近の日本の女性は強くなった。電車の中や表で大きな声で話したり、元気に闊歩しているのは若い女性である。男は電車の中でもだらしなく座ったり、寝そべったり、ズボンをずり下げたりして全く頼りない。それに若い男が大きな元気の良い声で話しているのをほとんど聞かなくなった。話してもぼそぼそとした会話が多い。
最近は、女性が強くなり、これに圧倒されているのかも知れない。働く女性が多くなり、彼女達は結婚しなくても生活できるので結婚を急がなくなった。結婚の主導権も女性が握っている。仕事がない上に結婚もままならず、勤めても、会社では能力主義とか実績本意とかで毎日心身をすり減らしているのは分るが、なんとも頼りない。

それでも男の子は内心、結婚し家庭を持たなければという気持ちがある。しかし、男女平等が学業から、会社や社会の隅々まで浸透し、これまでのように男が威張っておれなくなった。女性の方が頑張り屋で勉強もよく出来る。会社でも女性は何時辞めても余り影響ないので自由快活に振舞っている。それが返って良い結果を生んでいるのかも知れない。給料が銀行振り込みになってから、家庭でも女性が財布の紐を握り、男の居場所がだんだんなくなって来つつある。力仕事や戦争が無ければ男は子孫を残す以外に用はないのかも知れない。

最近の俳句の世界も女性が圧倒的に多く、女性の主宰も多い。それに女性の方がよく勉強しよい句を作る。その内、俳句も女性のものになってしまうかも知れない。

# by yuusimatuda | 2008-08-23 23:25

房総風土記の丘を巡る

8月20日(水)

昨夜月下美人が咲いたのを知らずにいた。
今夜も1花咲いたが、夕立で鉢がずぶ濡れで取り込み出来なかった。
前回の花も忘れていて見損なった。以前と比べて月下美人の待遇も悪くなった。

夕方から2回雷雨となった。この所、良く雷雨がある。
雷雨は豊年の証と云うが、昔と違って米の待遇も悪くなった。
食糧危機を言いながら減反や後継者不足で、耕作を放棄し荒れる田が増えている。
日本の農業の危機が叫ばれて久しいが、抜本的な対策は全く取られていない。不毛の農政がその足を引っ張っているようだ。
日本の文化は米作と養蚕の上に成り立っていた。養蚕が滅んで久しい。米もやがて外国の米や小麦にとって代られる日も近いような気がする。
 
先日、房総風土記の丘に行く途中、田圃の中を歩いた。
今年の米の出来は大変良いように感じた。昔だったら、大喜びだが、今は豊作を喜んで良いのか分からないのが現実だ。
古墳の時代は米の生産を如何に増やすかが大きな問題だったと思う。その米を作る土地を巡って、弥生時代の倭国大乱が起きたのだ。その後の国内の戦争もこの土地を巡る争いだった。

この下総も米を作る土地を求めて東進してきた大和民族が拓いたところだ。房総風土記の丘の古墳は6世紀から7世紀にかけてのものが多いが、手賀沼の北と南には5世紀の古墳があると言う。特に手賀沼南岸には4世紀と推定される古墳も確認されている。

その当時、既にこれらの古墳を築くほど米の生産が進み、その富を背景にこのような豪族が現れていたのだ。その時代から、汗水たらして拓き、耕し、命を懸けて守って来た田が、荒れ放題になっている。この古墳の主達がこれを見たら、きっと激怒するに違いない。

  唄ふ埴輪踊る埴輪や月を待つ

古墳の丘の谷間に古い貯水池があり、ここの蓮が見事であった。その池を望む台地の上の古墳の1つを昔のままに再現してある。6世紀初めのものと云う。円筒埴輪が古墳を取り巻き、女や武人の埴輪、家、馬、犬、猪、鹿、水鳥等の埴輪がその前面に並べられている。これを見ると当時の生活の一端が分るような気がする。荒れ放題の田圃を見るとこの埴輪を作った人達に申し訳ないような気がしてならない。

# by yuusimatuda | 2008-08-20 22:29

類句類想の句

8月19日(火)

 ここ2,3日涼しかったが、今日はまた少し暑さがぶり返した。
 今朝、近くの三匹獅子で知られる西光院に立ち寄り、しばらく蝉を聞いた。
蝉の声も、もうすっかり秋の気配がする。
静かに耳を傾けていると、いきなり頭上で熊蝉が鳴き出した。
これまで、この付近で熊蝉を聞いたことがなかった。
従来、熊蝉は箱根が境でその東にはいないと言われていた。
子供の頃から、最も親しんだ蝉である。しかし、懐かしいはずが、ここでこの蝉を聞くと何となく場違いで異様な感じがする。
これも地球温暖化の結果だろうか。
故郷でこの蝉を聞くと心弾むが、ここで1匹だけの熊蝉を聞いていると何となく淋しくなって来る。
 
 1昨日の句会で、私の句とよく似た句が出た。先生はその句を特選に取った。
   七歳の児が七十に敗戦忌  晋子
 私の句は「敗戦忌十一歳が七十に」だった。

 「七歳の」句は7の重なりで、「11歳」よりすっきりしているようだ。ただ、この句は「児」があり、これが余分なような気がする。作者自身のことでないような感じがするのだ。しかし、私の句は自分のことだが。晋子さんの句の7,7の重なりには語呂が及ばない。最近、類想類句が問題になっているが、この類の句は一番類想類句を呼びそうだ。この句は問題があるが、私の句は先行句として許されるかも知れない。晋子さんの句が先だったら、私の句は捨てるほかなかった。
  日向ぼこ仏掌の上にゐる思ひ  林火
  大仏の掌にある思ひ日向ぼこ  狩行
この2句も類想と云うより類句だ。林火先生の句の方が上手に出来ているが、狩行先生の句が前に出来ている。狩行先生は類想類句が大変嫌いな人のようだ。この林火先生の句にはかなりの抵抗を感じたのではなかろうか。
  降臨の仏の素顔蓮開く
  蓮開く一片の雲水に浮き
  蓮の葉の裏返る風涼気呼ぶ
夕方句会に出席するため早めに出発、湯島で降りて2,30分不忍池の蓮の花を見た。今年は蓮の生長が素晴しく、花も大振りで見事だ。それにしても蓮の句はどうしても末香臭くなる。

# by yuusimatuda | 2008-08-20 00:06