人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日々思いつくままに


俳人雄姿の日常
by yuusimatuda

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた

08,9,16(火)

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた_c0167560_20133214.jpg


上野の近代美術館から交番に行く角に夕顔が咲いていた。

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた_c0167560_20183830.jpg


ここの涼しさで噴水もいくらかよそよそしい感じがする。

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた_c0167560_2019773.jpg


公園の桜は最近の雨のためか早く散り始めたようだ。

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた_c0167560_20193816.jpg


弁天様の裏の池沿いに咲く彼岸花

句会で上野に行き、公園をしばらく歩いた_c0167560_2020636.jpg


蓮の実は蜂巣と言う、本当に蜂の巣のようだ。これはまだ実が飛ぶ前の蓮の実



毎月1回上野池之端の区民センターで句会を開いている。
初めは中高年の男ばかりの野暮ったい句会だったが、その後、2人の女性が加わり、4年ほど前、更に一段と若い女性が加わりいくらか華やいで来た。

ところが、この3月、一番期待していた作家が、急逝しやや淋しい思いをしていたが、また新しい会員が加わり、句会を盛り上げている。句会も常に新しい血が入らなければだんだんと老化して仕舞うのかも知れない。

この会に出席する前、上野駅から公園を通り、不忍池をひと巡りして俳句を作るのが、常となっている。しかし、中々いい句は出来ない。今日も40分ほどこのコースを歩いたが、写真を撮ったりしていて、とうとう句は出来なかった。

  邯鄲や星豊かなる山の町

しかし、柏から上野までの電車の中で、「邯鄲」を季題に句を作って来た。
以前、御岳に邯鄲を聞きに行った時のことを思い出し、4、5句作り、その中から2句を出句した。ところが、前から準備してきた句には余り点が入らず、電車の中で出来た句が案外好評だった。

俳句は何処でいい句が出来るか分からない。従って、いい句を作るためには、何時、何処で句心が動いても良いように、常に備えていなければならない。俳句は作ろうと、構えた時より、何時の間にか自然に湧き出したものにいい句が多いような気がする。
吟行等でも、一生懸命に作ったものより、その間に自然に生まれたものの中いい句がある。しかし、苦労して作った句は可愛くて良い句に見えるものだ。自然に出来た句は余り苦労しないので、作者はつい見逃してしまう。後で静かに読み直して気付く場合が多い。
句会に出して、思いもよらない句が高点を得る場合が多いのは、そのような作句の機微によるもののようだ。

  幸せの香に新米の炊き上がる

戦中、戦後の食糧難の時代に育った者にとって、白米は幸せそのものだった。まして新米ならなお更だ。今の若い人には分からないだろうと言ったら、50近い人が「もし最後の晩餐に何がほしいか」と、聞かれて「白いご飯と応えた」と言った。やはり白いご飯は日本人共通の思いかも知れない。
最近、その国民の思いを悪用した三笠フーズの事件が起きた。儲けるために国民の食の安全を犠牲にして平気でいる悪徳商人が増えた。けしからぬ事件である。日本の食の安全はどうなっているのだろう。次から次からと食の安全を脅かす事件が跡を絶たない。
悪徳商人が余りにも多すぎる。今回の米の流れを見て、米屋の米がどのように処理されているかはなはだ疑問を持たざるを得なくなった。
早く、安全で安心して食べられる、幸せな香りの米を供給してもらいたと心から願っている。

# by yuusimatuda | 2008-09-17 00:21

栃木に1泊吟行、大中寺や蔵の町の古い町並を巡る

08月9月15日(月)

13日、14日と栃木市へ吟行に行った。

13日
先ず大平山大中寺へ。ここは栃木市に近いが、大平町とのこと。
この寺には以前、数回来たことがある。
平安時代、真言宗の寺として創建され、その後荒廃していたのを、この地の豪族小山氏が曹洞宗の寺として再興したと云う。上杉謙信が伽藍を寄進したり、上杉、北条の和睦の会談が行われたこともある名刹である。


栃木に1泊吟行、大中寺や蔵の町の古い町並を巡る_c0167560_20352037.jpg

br clear=all> 大中寺山門


江戸時代は関東の3刹として栄えたと言うが、近年は寂れ寺域の広さと大きな本堂にその面影を止めている。
上田秋成の「雨月物語」の中の「青頭巾」は、この寺に取材しているという。なんとも気味の悪い7不思議を伝える寺としても知られている。

参加者18名、栃木駅からタクシーで到着、境内で持参の昼食をとり、午後4時まで付近一帯を散策し作句する。この寺は大平山の山裾にあり、紫陽花で知られるが、今日は花もなければ、読経の声も聞えず、僧の姿もない。静かな古びた庭と山林があるのみ、辺りではしきりに秋の蝉が鳴いている。
境内や裏山を歩いたり、寺の7不思議の謂れを掲示板と首っ引きで覗いたり、清流に耳を傾けたりするのみであるが、俳人にはこれで十分だ。

門前から、平地の方に降りて行くと、葡萄や梨の果樹園が広がっている。ここは大平の果樹園として葡萄狩りや梨狩で知られた所である。お寺に飽きるとこの果樹園に下りたり、皆それぞれ自分の向き向きに取材して作句に当っている。
果樹園の葡萄や梨はそろそろ終りに近く、この連休で葡萄狩もお仕舞いになりそうだ。
久方振りに半日ゆっくりと作句し、夕方、栃木市内のホテルに向かう。

栃木市は日光例幣使街道の宿場町として栄えた町だ。特に巴波(うずま)川を開発して川運が発達すると、付近の農産物や木材を江戸へ運び、江戸から帰り舟で塩や衣類、日常品、その他の商品を持ち帰り、これらの商品を扱う店で大変栄えたという。
当初、関東平野の真ん中のこの町が、港町として栄えたと聞きなんとも不思議な感じがした。今は鉄道や自動車で物資の大量輸送を行っているが、鉄道がなかった時代は物を運ぶのは大変だった。人が担いだり、馬の背に乗せたりしてもたかが知れている。自給自足の時代ならともかく、年貢や商品の需要が増えると、これを運ぶのは大変だったのだ。そこで考えられたのが水運だった。舟は想像以上に沢山の荷が積める。従って、関東平野の至る所の川が整備され、運河が開発されたらしい。その運河や川をつないで物を運んだという。川越夜船で知られるとおり、川越もこのような内陸の港として栄えた町だ。これらの川や運河は利根川に繋がり、江戸川を経て江戸に繋がっていた。


栃木に1泊吟行、大中寺や蔵の町の古い町並を巡る_c0167560_20364571.jpg



巴波川沿いの夕景


巴波(うずま)川の岸には、今も土蔵のある大きな屋敷が幾つも立ち並び、川縁には船着場跡も残っている。
その川と黒板塀や土蔵等の町並みがよくマッチし、思いを古い江戸時代へ誘ってくれる。街中も出来るだけ土蔵を残し、新しい家も古い町並みに溶け込むように勤めているようだ。川越とよく似ているが、ここは川が街中を流れている分、より情緒があり風景も優れているように思う。
当夜は待宵、ホテルの窓を澄んだ月が覗いていた。
このホテルの直ぐ裏の近龍寺には山本有三の墓がある。今日は大中寺に集中したので、明日、ゆっくり市内を散策することにする。



  一川の鋼光りや秋暑し
  爽やかや竹林に透く水の音
  秋澄むや大寺に人の気配なし


夜の句会(2回)で如何したことか、15句中7句が主宰選に入ってしまった。


14日
ホテルはシングルだった。この吟行は句会で夜が遅くなり、何時も眠れずに困るが、昨夜は久方振りゆっくり眠った。朝、吟行に出ようとすると、雨がぱらついているから、傘を持って行ったがいいとのこと。ところがホテルを出て間もなく晴れ上がり、残暑厳しい好天になった。女性軍は雨傘を日傘代わりに使っていたようだ。

先ず、巴波川に沿って歩く、途中から県庁跡の建物や山本有三の碑を覗いたりして歩いた。
明治の初めはここに県庁が置かれたとのこと。三島通庸が強引に宇都宮に県庁を移したが、栃木と云う県の名前はそのままになったらしい。

ところで、最近、山本有三の「路傍の石」や「真実一路」は余り読まれなくなったという。あのような立派な本がどうして読まれないのか不思議である。
子供達の成長期に是非読ませたいものだ。

栃木に1泊吟行、大中寺や蔵の町の古い町並を巡る_c0167560_20392448.jpg



山本有三の碑は母校に直ぐ前に立っている

 たったひとりしかいない自分と
 たった一度しかない人生を
 ほんたうに生かさなかったら
 人間として生まれて来たかいがないじゃないか
                        山本有三

                 
この言葉が碑に彫られ、母校の近くに建てられていた。
本当に噛締めたい素晴しい言葉である。

山本有三の他に吉屋信子もこの町で育ったという。彼女も良い作家であった。この町の持つ雰囲気がこのような作家を育てる素地になっているのかも知れない。
巴波川は勿論、周りの小さな小川や堀にも鯉が沢山泳いでいる。巴波川の水は良く澄み、水量が豊かで流れが速い。
この豊かな流れが、この町を育んだことを思うと、ますますこの川に親しみが湧いてくる。川に沿った黒塀や白壁の土蔵、川に向いた古い造りの町並みや柳の並木が大変印象的である。川に沿って歩いていると、川舟が少女3、4人を乗せて急流を遡ってきた。これまで川舟がこの急流をどうして遡って来たのか気になっていたが、棹で軽々と上って来るのを見てやっと安心した。





栃木に1泊吟行、大中寺や蔵の町の古い町並を巡る_c0167560_20405033.jpg



巴波川と周りの町並み



しかし、舟川には川沿いに道が付いていて、川を遡る舟を人や牛馬で引いたとも聞いている。どうしても棹が無理なときは、これに頼ったのかも知れない。

ところで、この町の名物にじゃが芋入りの焼きそばがあるという。主宰と編集長、私の3人で、少し早い昼食に名物のじゃが芋焼きそばを食べに行った。肉は入っていないとのことだったが、肉入りの焼きそばと余り変わらなかった。このそば屋の女主も絵を画いたり、詩を書いたりしているらしい。ここに住んでいると、ついそういう気になるのかも知れない。

町中には見るところが多く、とうとう山本有三の墓を覗く時間が取れなかった。有三記念碑を見たのでこれで我慢することにした。句会場は観光協会の店の2階の会議室、以前使ったことがあるような気がした。

この町まで柏から、2時間足らずで来ることが出来る。特急を使わなければ運賃は860円、安くて速く来られるのは魅力だ。近くには芭蕉の奥の細道に出て来る室の八島の大神社もある。これからも暇を見ては訪ねたいところだが、何回も来ると、また、句が作れなくなって仕舞いそうだ。程ほどに訪ねるのが良いのかも知れない。

  良夜明け水美しき蔵の町
  蔵の影映し秋水止まらず
  月見団子灯して売れる蔵の店


やはり作句の中心は巴波川になってしまった。こまごましたことより、対象にまともにぶっかり、正面からでないと俳句を作ったような気がしない。おかげで生涯軽味のあるいい句には恵まれそうにない。
  

# by yuusimatuda | 2008-09-15 21:46

また月下美人が咲いた。今日はニューヨークでのテロのあった日

08,9,12(金)


また月下美人が咲いた。今日はニューヨークでのテロのあった日_c0167560_20451297.jpg


夕方ウオーキング。諏訪神社の上に美しい雲が出ていた。


また月下美人が咲いた。今日はニューヨークでのテロのあった日_c0167560_20455433.jpg


夕日をバックに芒の出穂を撮ったが、夕日はよく写っていないようだ。


また月下美人が咲いた。今日はニューヨークでのテロのあった日_c0167560_2049584.jpg




また月下美人が咲いた。これで今年4回目、今回は一緒に6個咲いている。同じ葉っぱに花が2つ付くと1個は途中で落ちてしまうが、今回は落ちず2つの葉っぱにそれぞれ2つづつ咲いている。
明後日は待宵だが、名月を待ちきれなかったようだ。ところで十五夜の前の十三日の月は名月の中に入っていない。1月遅れの十三夜は名月とされているがどうしてだろうか。
ともあれ6個の花を見ていると、華やかで自ずから若やいでくる。美しい娘が増えたようで今夜の酒は特に美味かった。晩酌は何時も手酌だが、この花を見ながら酌む酒はやはり手酌に限る。

  月下美人手酌の酒に祝ひけり
  月下美人咲く名月を待ちきれず


ところで、昨日は、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破テロから7年目だった。
それ以来、アメリカの対テロ政策が過熱し、イラク戦争、アフガン戦争へ発展した。
アメリカは、これをチャンスとばかり、ごり押しでイラク戦争を始めた。
イラクが大量破壊兵器を持っていたか定かでないが、表面的には大量破壊兵器や生物化学兵器は見付かっていない。
これはブッシュ大統領の過剰反応と、当時の武力、経済力の一国集中によるアメリカの大国意識が、この問題を招いたような気がする。イラクを甘く見たというより、世界を甘く見た思い上がりが、現在のような混乱を招いている。イラク戦争はアメリカの石油戦略の一環でもあったようだが、返って、石油問題の混乱を招き、テロを更に助長させてしまった。
テロは許せないし、テロ対策は是非必要だ。しかし、テロに対するにテロと同じ手法をとるのは如何なものか。

イラクも少しは落ち着いてきているようだが、もう7年も混乱が続いている。
この戦争とその後のテロの犠牲者はどれ位いるのだろうか。この責任は一体誰が取るのだろうか。人1人が殺されると、犯人の捜査に警察は総力を上げて取り組む。捕まった犯人は刑事処分を受け、場合によっては死刑になるのだ。しかし、戦争でいくら人が死んでも責任を追及されることは少ない。
先の太平洋戦争では、日本の戦争責任が問はれ、多くの戦犯が処刑されている。
今回のイラク戦争は一体どうなるのだろうか。フセインは処刑されたが、アメリカの責任はどうなるのだろうか。
先の戦争で、敗者を裁いた戦勝国側に責任は無かったのだろうか。原爆を使用したり、無差別に都市を焼き払い多くの非戦闘員を殺したのは、戦犯ではないのだろか。大戦の原因を作ったのはどちらだったのだろうか。真珠湾攻撃だけを槍玉に上げ、日本のみが悪者にされたが、一体それで良かったのだろうか。
勝てば官軍の理論が通用する限り、強国の勝手なごり押しにより、今後とも戦争やテロは無くならないのかも知れない。
アメリカが嫌いではないが、何でも一番でなければいけないと云う、大国意識は好きになれない。

3姉妹の末の娘は、このテロのあった夜入院し、翌日の明け方長男を出産した。今日はその長男の7歳の誕生日だ。その孫も、今年、小学校に入り元気に通学している。私の1年生のとき太平洋戦争が始まった。それからもう67年になる。

# by yuusimatuda | 2008-09-12 22:00

我が家の近くで邯鄲が鳴き始めた

08,9,9(火)



我が家の近くで邯鄲が鳴き始めた_c0167560_23154039.jpg


芒の穂が出掛かっている。この草の中で邯鄲が鳴いていた。


夕方、ウオークキング
以前は毎日、5,6キロから10キロ歩いていたが、最近、膝が痛くなって距離を短めにしている。
今日は筑波Xプレスの流山おおたかの森駅の方へ4キロほど歩いた。
今まで畑や森や荒地であったところに、新駅が出来てマンション建設ラッシュが続いている。しかし、駅から少し離れた所は宅地として土地を確保したまま放置されている。
新線が出来、将来の発展を当てにしているようだが、売れ行きは余り芳しくないらしい。
もう日本の人口はこれ以上増えないし景気もよくない。そのような状況で住宅ばかり作っても入る人がいるのだろうか。
他人事ながら少し心配になって来る。

この駅の近くの森に大鷹がいるとのことで、駅名を「流山おおたかの森」としたが、一般の人は半信半疑だった。ところが駅の完成直前、硝子張りのホームに大鷹が迷い込んで出られなくなり話題となった。正に駅名をアッピールするに相応しい出来事だった。

我が家の近くから、この駅へ向かう道路は完成したが、途中の開発が進んでいないので、歩くのには格好の道路である。
ここを歩いていると、日に日に薄の穂が膨らみ、虫の声が増えているのが分かる。
その草地で数日前から邯鄲が鳴き始めた。初めは一箇所だったが、今日は3箇所で鳴いていた。
邯鄲は、ここらの平地では鳴かないものと思っていた。
従って、わざわざ奥多摩の御岳に邯鄲を聞きに何回か通ったことがある。ところが実際は我が家の近くでも鳴いていた。それまでは邯鄲の声を知らず聞き逃していたのだ。
山で邯鄲を聞くのは最高だが、ここでちちろの声と一緒に、邯鄲の澄んだ声を聞くのも悪くない。今日は、ウオークの途中、立ち止まって、しばらく邯鄲に耳を傾けた。

ところが家の近くまで来ると、例の青松虫が鳴き始めていた。この虫は木の上で鳴く、それに声が高く虫の音と云うより雑音に近い。外国人には虫の音は雑音のように聞えると、誰かがいうのを聞いたことがある。正にこの虫ならそう聞えるかも知れない。

青松虫に気がついたのは、昭和52,3年ごろだった。
新宿に勤めていた頃、朝夕、歌舞伎町とゴールデン街の間の旧都電通りの並木の上で大きな虫の声がしていた。
当初、町で拡声器か何かで虫の音を聞かせているものとばかり思っていたが、どうも様子が違うので気をつけてみると本当の虫の音だった。まさか虫が木の上で鳴くとは思っていなかった。

それから数年すると、我が家の近くでもこの雑音が聞え始めた。雑音と云うより騒音である。この虫が鳴き始めてから、日本旧来の虫の音が余り目立たなくなった。この虫に比べると、日本在来の虫は何となくおとなしくしとやかである。

青松虫は伊豆七島では聞かないような気がする。また、九州でも、聞いたことが無い。帰る時期によるのかも知れないが、田舎の人に聞いてもやはり鳴いていないようだ。
最近、この虫の天敵が現れたとかで、以前よりは少なくなったような気がする。

# by yuusimatuda | 2008-09-09 22:43

柴又へ吟行、帝釈さまの会館で句会を開いた

08,9,7(日)



柴又へ吟行、帝釈さまの会館で句会を開いた_c0167560_22315392.jpg



「笹鳴会」の吟行で柴又に行って来た。この吟行会はもう10年近く続いている。
今日は1日柴又を歩き柴又帝釈天の鳳翔会館で句会を開いた。

柴又は帝釈様と矢切の渡しで知られている。
特に矢切の渡しの歌謡曲と寅さんの映画がヒットしてから、広く知られるようになった。

古くは柴又を島俣と言ったらしい。
昔から、農業の盛んな土地で、昭和の初期まで付近一帯は農地であったという。現在はその面影は無い。

矢切の渡しのある江戸川は、元は利根川の本流で太日川と言った。
家康が利根川の流れを銚子の方へ変えてから、江戸川と呼ぶようになった。江戸時代、関東や東北の物資は利根川を通り関宿から江戸川に入り江戸に運ばれたという。

先ず、金町線の柴又駅で降り、柴又八幡に詣でた。この社は6世紀後半に造られた古墳の上に建っている。埼玉の稲荷山古墳と同じ頃だ。それに比べ規模はかなり小さいが、それでもこの地の有力者だったに違いない。
以前は幾らか古びた感じの社であったが、今回、訪ねると境内は整備され、当時の面影はなくなっていた。

帝釈様は、日蓮宗のお寺で初詣や60日に1回の庚申の日に賑わう。今日は日曜日で思いのほか人出が多かった。

江戸川へ出ると、矢切の渡しは、朝から観光客で賑わい船頭さんも大忙しだった。
柴又と云うと先ず川千家と川甚の鰻、門前の草団子が名物、従って、昼飯は川千家の鰻を食べることにした。

昭和55年から2年ほど、仕事で帝釈さまの初詣や葛飾花火等でこの地に深く係わった思い出がある。
当時、まだ、四十台半ばだった。
ここに来ると当時のことが思い出され懐かしくなる。

その頃から、帝釈様と門前の様子は余り変わっていない。しかし、お寺の裏から、江戸川にかけては、寅さん記念館が出来たり、土手通りが整備されたりしてかなり変わっている。
それにしても都内の他の土地に比べると変化が少ない方かも知れない。

   寅さんのだぶだぶ背広秋暑し
   酔芙蓉寅さん自慢はじまれり
   弾き猿かちかち弾き秋暑し

# by yuusimatuda | 2008-09-07 22:55