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日々思いつくままに


俳人雄姿の日常
by yuusimatuda

見沼の通船掘

08,11,27(木)


また風邪を引いてしまった。
1昨日、少し喉が痛かったが、昨日、気にしながら埼玉の見沼へ出かけた。ところが見沼に着いて水辺を歩いていると、喉が痛くなり、洟水止まらなくなった。


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見沼西代用水は平地と高台の間を縫うように走っている

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芝川風景、代用水は南に流れているのにこの川は北に流れていた

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芝川の風景

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これは東通船掘、西通船掘は日暮れになって写真が撮れなかった


見沼は昔沼だったところを干拓し、見沼用水を引き美田となした。
見沼代用水は東と西とがあり、その間を芝川が流れている。
江戸時代、水上交通が盛んで物資の輸送は多く船運に頼った。見沼では芝川と東西の見沼用水の高さがそれぞれ約3メートル違うので、その代用水と川を舟で繋ぐため、運河(通船掘)を作り、パナマ運河と同じような閘門を設置して、その段差を調節して舟を通したという。
その遺構が今もここに残っている。これはパナマ運河よりもかなり前に出来ていたのだ。
江戸時代の素晴しい知識と技術が生かされてた。江戸時代、江戸と関東の各地は船で繋がれていたのだ。
当時の江戸の経済発展はその船運によるところが大きかった。特に100万とも言われた江戸の人口を養うのは大変だった。それを支えたのがこの船運だった。この運河は大正の末まで活躍したという。その後、鉄道と自動車が発達しこれにとって変わり、水上交通は廃って行ったと云う。

また、見沼では沼を埋めて広い水田を開いた。
昭和50年代浦和の俳人に連れられ、何回かこの見沼通船掘に吟行に行った。当時、見沼の東西の代用水の間には豊かな田圃が広がっていた。
その後も何回か吟行に行っているが、見沼は豊かな田圃の記憶しかなかった。
ところが今回行って驚いた。芝川の西側には田圃がほとんどなくなり、一面の荒地になっていた。日本の農業の現実を代表するような光景に唖然とした。

通船掘は歴史的遺産を残すため、以前より整備され水の流れもよくなっていた。
また、西の見沼代用水、芝川、通船掘に沿った道は、今サイクリングやジョギング道路として利用されている。

  小鳥発つ枯野が舞ひ上がる如く
   冬枯れや通船堀に関二つ
   廃田を貫きて川冷え冷えと


by yuusimatuda | 2008-11-27 13:35
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